まぁ我々エンジニアはですよ

マーケティングの話ではニーズかシーズか、みたいな話がでてきて、ニーズをすばやくとらえることが重要なのでPOCをまわしていきましょうってなるのはそうなんですよ。
シーズよりもニーズのほうが重要。
シーズ駆動でサービスを企画。つまり、なんらかのすごそうな技術ができたとして、その技術をどう使えばもうかるだろう、っていう切り口はまずうまくいかない。
まず、人間の求めているものを探して、それに枯れた技術なりを適用していくほうがもっとも効率がよい、と昨今は言われてるわけだ。


だからまぁそのアプローチで全体的には間違ってないんだけど、我々エンジニアとしてはシーズも重要である。
なんらかの技術があったとして、それがいかように使われそうになってもうまい具合にソリューションを提供できるようにする能力が必要なわけである。
だからニーズだけ追いかけてもうまくいかなくて、シーズとなりえるものをよくみて、いつどんなニーズがきてもそれらをうまく適用できるようにしなきゃーならんわけです。

シャッフラーかダンサーかという

シャッフラーというのは蔑称にあたるのではなかろうか。
シャッフラーかダンサーかというのはシャッフルだけみていてもわからなくて、他のダンスでどうか、というので決まる。
ブッダストレッチが「ハウスならハウスを、ヒップホップならヒップホップをダンサーなら踊るんだ。自分はハウサーだからヒップホップじゃ踊れないとか踊らないとかなんてありえないね!」みたいなことを言っていた。
俺もそう思う。
その音楽に合ったダンスを踊るべきだし、よく学ぶべきなのである。
それができずになんでもかんでもランニングマンだったりするようなのはもはやダンサーではなく、それはシャッフラーである。
shuffleができる人間、という能力を持った人間を指すというよりも、能力が低い人間、という意味が含まれているため蔑称ではないかと思うのである。

死ベースの人間たち

よく、twitterやみあかの人は「自分なんていなくてもいい」どうちゃらこうちゃらというので
別にあなただけじゃなくて、みんな誰もがみんなお互いを必要としてないですよっていう真実を伝えるんだけど、そもそもがおかしい人達しかいないので曲解して「やっぱり自分はいらないんだ!」っていうメッセージだけを取捨選択するのでうんざりしますね。
さっさと死にゃーいいし、死ぬくらいの努力を見せるんだったらなかなかみどころがあるなって思うんですがそんな度胸もないんだから。
ていうようなことをいうと垢バンされたり殺人教唆になってしまう世の中なのでめんどくさいなーと思うわけです。mixi時代はなかなか楽しかった。
死にたいっていう人はいっぱいいるので死ねや!っていうといろんな反応が見られる時代でした。
まぁ、結局はそんなつもりはからっきしないっていうことがわかっただけなんですけどね。


とにもかくにも人の最初には産まれるがあって、最後には死しかない。
と、通常の人は考えるけど、最近としをくってきたせいか死の後にも道は続くなぁと思うようになってきた。
人の終わりは死ではなく、その後もサステインする。
葬式や後片付けやはかもりみたいな物質的なものだけでなくて、概念的なやつ
っていうところを考えると死にたいっていってるやつはそのへんも考えているのか、というか考えていないし、今生きている意味もあんまり考えてないんだろうなーと思われるので、どーしようもないやつらばっかりだなーと思うわけです。